100円に凝縮された感動
2009年12月29日
さて問題です。こちらの写真の女性(右)は一体誰でしょう?ヒントは皆さんがいつもお世話になっている人物。小説家で代表作は『にごりえ』『たけくらべ』※左は杢太郎の姉たけです。
伊東市湯川、住宅街の一角にひっそりと佇む「木下杢太郎記念館」。伊東市民なら一度は訪れたことがある観光名所の一つです。駅から歩いて5分、歴史の香り漂うなまこ壁を配した黒い外観は、明治40年のもの。ガラガラっと引き戸を開けると、木造建築のしっとりと落ち着く空間の中に、3つのブースに分かれた展示室があり、奥には天保6年(1835)築になる伊東最古の古民家、木下杢太郎の生家が保存されています。入館料はたったの100円。しかしこの記念館、じっくり見学してみると、100円以上の価値がある素晴らしい記念館だと認識せずにはいられないのです。
[写真・伊東市立木下杢太郎記念館所蔵]
杢太郎入門編
さて、皆さんは杢太郎がどんな人物だったか知っていますか。生前は有名人であったという杢太郎ですが、現在経歴はおろか、その名を知っている人も多くはありません。まずは、彼の生い立ちを簡単に説明していきます。
木下杢太郎(きのしたもくたろう)という名は、彼が使用していたペンネームの一つで、本名を太田正雄(おおたまさお)といいます。明治18年(1885)8月1日、商家米惣の7人姉兄(4姉、2兄)の末っ子として生まれました。ちなみに彼の誕生した8月1日と没した10月15日は記念館を無料開放しているので、友達を誘ってぜひ行ってみよう。
早くに父を亡くした杢太郎は、長女よしと婿惣兵衛(3代目)を父母と慕い、姉兄たちの影響を受けながら育ちました。この頃から杢太郎になる気質をじわじわと蓄積していきます。現在の西小学校である東浦尋常小学校・伊東尋常高等小学校を首席で卒業し、家族の勧めからドイツ語で有名な東京の独逸学協会中学校(現在の獨協学園 )へ進学します。この頃から文学に目覚め、創作活動を始めていきます。明治36年(1903) 第一高等学校第三部に入学、在学中に画家三宅克己(みやけこっき)に師事し、画家になることを目指しますが、家族の反対から断念。そして東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学します。在学中には、与謝野寛(よさのひろし。ペンネームは鉄幹(てっかん))が主催する新詩社に加わるなど、文学活動を積極的に行っています。卒業後は、創作活動を行いながらも主軸は医学に。皮膚科を専攻し、医学者として研究に勤しみます。大学教授を歴任、医学で数々の功績を残し、昭和20年(1945)10月15 日、60歳の生涯を終えます。
以上のように医学、文学、美術など広い分野で杢太郎は立派な働きをしています。では、杢太郎という人物を一言で表すと何者になるのでようか。医学者?文学者?画家?生涯学習課の高柳さんは、杢太郎を「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と来館した方に説明しているそうです。なるほど。映画でも久しいダ・ヴィンチは、絵画や彫刻、人体、その他の科学技術などに通じ、極めて広い分野に足跡を残している人物です。知名度に差はあれど、ダ・ヴィンチと絵や文学、医学とマルチな才能を持った杢太郎って、似ていると思いませんか。
次に、知られざるエピソードを含め、もう少し詳しく杢太郎を紹介していきます。
竹下数太郎=木下杢太郎=太田正雄
私たちに深く定着している"木下杢太郎"というペンネーム。実は、木下杢太郎は彼がもっとも多く使っていたペンネームの一つなのです。初めて彼の作品が世に出たときに使っていたペンネームは"竹下数太郎"。大学時代、読売新聞に投稿した作品になります。竹下数太郎...この名を縦書きにしてみてみると、他の漢字が見えてきませんか。竹と数(旧字は數)。この文字を組み合わせると"籔"(籔は藪の俗字)になるのです。籔と医者つまり、医術の下手な医者、藪医者のこと。しかたなく医学の道に進んだ杢太郎の抵抗の表れか もしれません。
では、木下杢太郎という名の由来は何でしょうか。このペンネームは、学生時代から使用していたもので、『桐下亭随筆』 にその由来が語られています。農夫杢兵衛の子杢太郎が、黄金にみのる蜜柑の木を見て、その理由が木の下にあると考え、地下一尺を掘りはじめる--それが木下杢太郎であると。竹下数太郎と同じく、杢太郎という名の由来も近いものを感じます。
杢太郎は、絵画や文学で度々ペンネームを変えていました。その一つに絵画で使用していた「葱南(そうなん)」という雅号 があります。中国の仏教の聖地、葱嶺が由来だそうです。医学者時代、中国の南満医学堂に赴任したとき、杢太郎は仏教美術に心惹かれています。そこからその名が付けられたのかもしれません。左正面に葱南の作品が展示されています。特に得意だったのが、猫と牡丹の画で、猫は彼の随筆で取り上げるほど好きだったといいます。ショップコーナーでは、彼が描いた作品の絵葉書が販売されています。人気の植物の絵葉書は、杢太郎が亡くなる直前、約2年間に描かれたもの。全部(絵葉書になってないものも含む)で、872枚にも及びます。ほとんどの絵は原寸で、医学用の便せんに描かれたものや、葉っぱだけのものなど様々です。2年間で1日平均だと1〜2枚。最多で1日21枚描いています。写実的で暖かみのある草花の絵を1日に21枚も描いているなんて神技としか思えません。
有名なお友達がたくさん
館内入って左が杢太郎の家族と文化人杢太郎ブースになります。杢太郎が参加した雑誌や著書、絵画、友人たちの作品などが並びます。明治40年(1907)与謝野寛が主催する新詩社に加わった杢太郎は、新詩社の代表雑誌『明星』に詩などを発表します。彼が最も尊敬した人物、森鴎外に出会ったのも新詩社に加わってからだといいます。この時期に、与謝野寛、北原白秋(きたはらはくしゅう)、吉井勇(よしいいさむ)、平野万里(ひらのばんり)、杢太郎の5人で九州に旅行をし、紀行文『五足の靴』を発表します。
キリシタンに興味のあった杢太郎は、彼らと島原、天草などキリシタンゆかりの地へ訪れます。1ヵ月の旅行で、予算は1人50円(現在の価値に換算すると50万円程度 )。太田家の家計簿によると、この時期杢太郎に送金したのは60円。家族が杢太郎のために多めに送金したと考えられます。この『五足の靴』によって、白秋の処女作『邪宗門』や、杢太郎の『南蛮寺門前』などの名作が生まれ、芥川龍之介のキリシタン文学へと繋がっていきます。明治41年(1908)新詩社を抜けてからも与謝野夫妻との交流は続きます。特に与謝野晶子は、杢太郎がとてもお気に入りだったといいます。杢太郎を題材とした歌を作ったり、彼に本の装丁をお願いしたりもしています。また、実の2番目の姉きんも杢太郎をとても可愛がり、晶子ときん両名は杢太郎にとって"逆らうことができない人物"だったといいます。
また『五足の靴』で知り合った 、白秋と勇らと後も行動を共にします。吉井勇は、「いのちみじかし こいせよおとめ」の歌で知られる歌人。杢太郎が亡くなり、伊東公園に最初の記念碑を建てるときにも参加し、裏に書 を刻んでいます。
彼が興した活動として「パンの会」も重要です。「パンの会」とは、石井柏亭(いしいはくてい)、長田秀雄(ながたひでお)、白秋らが興した文芸・美術家の懇談会。パリのセーヌ川のカフェで、芸術家たちが芸術談義に華を咲かせていたように、ここ日本でも芸術運動をしていきたいとの思いで発足しました。パンは食用のパンではなく、ギリシャの牧羊神のパンの意。パンの会は東京の隅田川をセーヌ川に、カフェを隅田川近辺にある西洋料理店に見立て、催されました。月に数回営まれたという会は、名だたる文化人が参加する大きな会に発展します。しかし、この会は次第に酒宴の場と変わり、明治が終わるとともに消滅。この頃が、杢太郎の文学活動のピークだったといいます。彼は、翻訳や美術評論など幅広い分野に手を染めています。
与謝野寛の『明星』、北原白秋の『屋上庭園』など名だたる雑誌に、詩や小説、随筆を書いた杢太郎は、石川啄木の『スバル』にも作品を載せています。啄木も年賀状をやり取りするほど仲の良かった友人の一人。この『スバル』がきっかけで、彼らの関係に亀裂が入ってしまったといいます。杢太郎の代表作『南蛮寺門前』。この作品を『スバル』に掲載する前に、杢太郎は鴎外に添削してもらいます。杢太郎は啄木に掲載する前に、一度鴎外に見せたいので、掲載する前に一度見せて欲しいと頼みます。しかし、啄木は見せることなく、『スバル』にそのまま掲載。啄木亡き後、杢太郎はそのときの愚痴を本に書いたとか。
明治44年(1912)12月、杢太郎は東京帝国大学医科大学を卒業します。いよいよ、医学者としての杢太郎についてです。
鴎外の勧めで進路が決まる
結局のところ、ダヴィンチ・杢太郎は、医学にもっとも情熱を注ぎました。実は、杢太郎が積極的に文化活動をしていたのは、学生時代なのです。医学の道へ進んでからは、友達が発行している雑誌などに度々文章を載せてはいますが、医学研究に最も力を入れています。東京帝国大学医科大学を卒業した杢太郎は、土肥慶蔵(どひけいぞう)の皮膚科教室に入局します。杢太郎が進んだのは、医者ではなく医学者でした。
皮膚科の道を選んだのは、生涯の師と仰ぐ森鴎外の進言から。東大時代、鴎外とこんなエピソードも残っています。 杢太郎は、その日試験だったことをすっかり忘れ、友人との談話に熱中していました。その試験を受けなければ落第という大事な試験でした。そこで、その試験の先生に、鴎外と一緒に取り成してもらうように頼みます。鴎外は当時、陸軍軍医総監で、東大にも顔がきいたようです。しかし、必死の訴えも適わず、落第してしまいます。
話は戻り、杢太郎は鴎外に精神病学の道に進みたいと相談します。鴎外は、日本皮膚科学会の先人と言われる土肥慶蔵の医局に入ることを薦めます。この鴎外の一言によって、医学者・太田正雄のその後が決まったのです。
医学を志した者なら一度は聞いたことがある "太田母斑"。その名の通り、太田正雄(杢太郎)が発見した母斑(痣の一種)です。また水虫の原因が白癬菌であると証明したのも杢太郎なんです。彼はハンセン病の治療にも力を入れ、隔離が不要で治せる(杢太郎はこちら)か必要で治せない(当時はこちらが優勢だった)かという論争も巻き起こしています。しかし、残念なことに当時の医学水準ではそれを証明することができませんでした。
以上のように、杢太郎は医学者としての功績甚だしく、日本皮膚科学会の先人に、土肥慶蔵、遠山郁三(とおやまいくぞう)と共にその名を連ねています。
厄災続きの名古屋時代
杢太郎31歳のとき、南満医学堂(中国の私立医学校兼病院)に勤めます。当時としては設備が充実した研究室だったそうで、ここで杢太郎は基盤を固めていきました。この地でも杢太郎の血は熱く、仏教美術に惹かれていったといいます。カビや白癬菌の研究にのめり込んでいった杢太郎は、さらなる研究を求め渡仏します。ドイツではなく、フランスに留学。当時カビ研究ではフランスの方か進んでいたのです。リヨン大学のランゲロン教授の元で真菌分類の研究をし、太田・ランゲロン分類法を完成させます。そして、日本に戻ってきた杢太郎に厄災が待ち受けているのです。
愛知医科大学で杢太郎は、手厚い歓迎を受け、一躍時の人に。どこの大学も各科の教授は1人制。しかし愛知医科大学では2人制を取ったことからも、その期待と人気が窺えます。そこで、杢太郎は盲腸を患います。盲腸は切れば治る病気。そう切れば...。しかし、次女きんによって死線をさ迷う事態まで陥るのです。きんは、天理教の信者でした。天理教は手術が禁止(当時)。きんは杢太郎が腹を切ることに大反対するのです。きんに逆らえない杢太郎。きんは大量のお札を杢太郎の腹に張り付けます。自分が教授を務める大学病院に入院し、腹にお札。何とも滑稽な構図です。お札を貼り続けた杢太郎は、腹膜炎を併発し、本当に死にかかったといいます。そして、この名古屋時代に最も親しかった兄、円三が自殺します。まさに厄年続きの時代だったのです。
教授としての期間が最も長い東北大学時代を経て、最後は母校東京大学の教授となります。この時代、名誉輝かしいフランスの代表勲章レジオン・ドヌール勲章を受章します。しかし、杢太郎はあまり褒め称えられるのに興味がなく、購入制だった勲章は購入せず、賞状も彼の引き出しの中に丸められていたといいます。最後は東大医学部教授として人生を終え、彼の脳みそは、鴎外とともに東大に納められています。
杢太郎は今の皮膚科学と、昔の皮膚科学のちょうど中間的ポジションに位置していました。彼は、現在の皮膚科学に種をまいた人と言えるでしょう。
姉兄たちもスゴイんです
杢太郎だけが伊東を代表する有名人ではありません。実は、彼の姉兄たちも名の知れた人たちなのです。
<個性的な姉たち>
冒頭の写真の女性誰かわかりましたか。ヒントでピンときた人もいるかもしれません。
A.樋口一葉(ひぐちいちよう)
現在は5000円札初の女性として知られ、度々お世話になっている方も多いはず。なぜ杢太郎記念館に樋口一葉の写真があるのでしょうか。実は三女たけと樋口一葉、ご学友だったのです。明治初期、英語を勉強したい!という思いから次女きんと、たけは東京の明治女学校へ進学します。実はこの裏で、きんは単身家出をしています。船で東京へ向かったきんは女学校に寄留し、父に手紙を書きます。その熱意が伝わり、きんは入学することができたのです。楽しいスクールライフを送っていたきんは、たけを呼びよせます。そこで仲良くなったのが一葉です。この時の一葉の着物はたけから借りものだといいます。太田家がいかに裕福だったかがわかります。ちなみに髪を下した一葉の写真は、この一枚しかないレアものです。
長女よしは、惣兵衛を婿にとり、3代目米惣を継ぎます。また3歳で父親を亡くした杢太郎は親代わりとして彼らに育てられます。次女きんは、関西建築界では長老的な存在であった建築家の河合浩蔵の後妻になります。杢太郎をとても気に入っていたきんと浩蔵は、養子(婿)になるように薦めます。結局杢太郎は、浩蔵の先妻との間の娘の正子と結婚します。三女たけは、判事・齋藤十一郎に嫁ぎます(四女のくにだけは市内の医者の養女に)。ちなみに杢太郎より、きんが18、たけが16歳年上。この姉たちの性格・気質は、少年期の杢太郎に多大な影響を与えたとか。
<国・地方の為に身を捧げた兄たち>
長男の賢治郎は2代目伊東市長になった人物。地方政治にとても熱心だったといいます。賢治郎は代用教員として1年間、杢太郎を教えていたこともあります。実の弟を贔屓してはいけないということで、彼の成績を常に2番にしていたという。しかし、他の教員が1番を付けていたため、結果として彼の成績は常に1等賞(首席)でした。記念館には杢太郎が1等賞を獲った賞状が実際に展示されています。なんと昔は成績が良いと賞状をもらえたのです。
次男円三は、今の東京を造った人物です。杢太郎と一番仲が良かったのも円三でした。記念館3つある展示室のうち、生家前の靴を脱いだ先にあるのが、平成20年に出来たばかりの円三ブースです。東京帝大土木工学科を卒業後、鉄道院に勤め、わずか42歳で復興局土木局長という地位にまで上りつめます。そして関東大震災によって甚大な被害を受けた東京の復興に力を注ぎ、隅田川の永代橋や、昭和通りなどを造りました。今は無くなってしまいましたが、震災後に造られた八重洲橋は杢太郎による設計です。円三は、東京の100年先を見越した設計や構想を説き、東京の基礎を築きました。何故このような経歴を持つ人物があまり知られていないのでしょうか。実は円三、先にも述べたようにショッキングな死を遂げているのです。復興局疑獄事件の発覚などのショックで、心臓をナイフで一突き。享年45歳。人望が厚かった円三の追悼会には、400人以上が詰めかけたといいます。早くに命を絶たなければ、もっと多くの業績を残し、現在名の知れた人物になっていたかもしれません。
米惣で売られていた学問のすすめや、夏目漱石が杢太郎に宛てた手紙、樋口一葉の写真など、知られざるお宝たちが眠る資料館。入館料はたったの100円。時間を取って、じっくり見学してみてはいかがでしょうか。杢太郎という人物の偉大さが伝わってくるはずです。
"木下杢太郎博士"のお二人
今回取材にご協力いただいた伊東市教育委員会生涯学習課の高柳さんと島田さん。木下杢太郎のことなら答えられないことはない!というスペシャリスト。素晴らしい解説や知識に「へぇ〜」ボタンの連発でした(笑)。長時間に渡る丁寧な解説どうもありがとうございました!
※杢太郎記念館は年末年始12月28日〜1月4日まで休館しております。
[関連リンク]木下杢太郎記念館
〈イズハピ編集部・つっちぃ〉
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