伊豆観光ガイド

伊豆ガイド〜中伊豆編〜

伊豆の国市[いずのくにし]

名物
イチゴ、鮎、スイカ
名所・史跡
大北横穴郡、蛭ヶ小島公園、韮山城跡、江川邸、狩野川放水路
簡単アクセス
東京方面
 東海道新幹線三島駅、東海道線三島駅―伊豆箱根鉄道駿豆線 原木、韮山、伊豆長岡、田京、大仁
 東名高速道路沼津インター―国道1号三島―国道136号(韮山、大仁)
 東名高速道路沼津インター―国道414号(伊豆長岡、大仁)

名古屋方面
 東海道新幹線三島駅、東海道線三島駅―伊豆箱根鉄道駿豆線 原木、韮山、伊豆長岡、田京、大仁
 東名高速道路沼津インター―国道1号三島―国道136号(韮山、大仁)
 東名高速道路沼津インター―国道414号(伊豆長岡、大仁)

熱海より
 伊豆多賀―山伏峠―大仁
 熱函道路―函南―伊豆中央道―伊豆長岡
 熱函道路―函南―国道136号―韮山、大仁

伊東より
 宇佐美大仁道路―大仁
 県道修善寺線―国道136号―大仁
歴史
平成17年(2005)に、狩野川沿いの韮山町、伊豆長岡町、大仁町が合併した。

韮山は源頼朝の旗揚げ、足利幕府の堀越御所、戦国時代のさきがけとなった北条早雲の拠点、幕末に国防を目指した韮山代官・江川担庵(太郎左衛門)の事跡、弥生時代の山木遺跡、大塚古墳など、至る所に歴史遺跡があり、一方でイチゴ栽培のハウスが並ぶ田園地域でもある。伊豆長岡は古くからの温泉場で、東京から静養に来る著名人も多い。大仁は農業とともに、大手製造業が拠点を置いたため勤労者の町の性格が強い。三者三様の町が1つの市になり、目的によって行き先を選べる地域になった。

1.歴史の町・韮山
 市の東側の韮山は、山間部に縄文時代の生活跡が散見され、山から平野に移る山木で大規模な水田跡が見つかった。北側の大塚山は、運動公園にするための工事中に古墳であることが分かり、石棺と鏡や剣も出土した。遺跡は非公開で、出土品は郷土資料館などに展示してある。縄文の遺跡は山続きの大仁でも見つかり、伊豆長岡には古墳時代の集合墓である大北横穴群があり、石製の骨壷も出土している。
 平安時代、平氏に敗れた源氏の嫡男・頼朝は伊豆の蛭が島に流された。駿豆線韮山駅の東側の田んぼの中にやや高くなった蛭が島公園がある。昔の狩野川は田方平野を大きく蛇行しており、この公園も川の中の島だったかもしれない。頼朝が伊東の支配者・伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になり、祐親に追われて庇護を求めたのが韮山の豪族・北条時政で、時政の長女・政子も頼朝に恋心を抱く。八重姫は頼朝を訪ねて峠を越えるが、すでに政子がいることを知り、狩野川の真珠淵に身を投げる。淵のそばの真珠院で今も供養際が営まれ、帰路命を落とした侍女たちを弔う女塚が田中山にある。頼朝を助け鎌倉幕府の初代執権になった時政の嫡男・義時は幼名を江間の小四郎と呼ばれ、伊豆長岡側の江間に館跡の碑がある。三島大社の夏祭りの夜、頼朝に討たれた山木判官・平兼隆の館跡も伝えられている。北条時政の館跡には「政子産湯の井戸」があり、時政が戦勝を祈願して建てた願成就院は真言の古刹。不遇な頃の頼朝が世話になった老女のために建てた成願寺は原木にある。
 室町時代後半、関東地方は京都の足利幕府に逆らう勢力が力をつけた。幕府は関東支配のため、1457年、将軍の兄・足利政知を派遣したが、戦乱のため鎌倉に入れず、韮山の堀越に落ちついた。堀越公方と呼ばれ、都風の館を構えたが、政知の死後、2代目茶々丸が1493年に伊勢新九郎(北条早雲)に滅ぼされた。早雲は伊豆の名跡・北条を名乗り伊豆を支配、箱根を越えて小田原を占拠し、晩年は韮山城に住んだ。県立韮山高校に隣接する韮山城跡には曲輪、土塁などが残り、韮山高校のグラウンドから什器などが出土した。韮山城は1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、出城として奮戦、4万4千人の大群に包囲され北条氏規の配下3千人あまりで100日あまりの篭城に耐えた。豊臣軍は函南から大仁まで、大きな包囲網を敷き、韮山城近くの豪族江川氏の裏門には、寄せ手の銃弾の跡が残っている。
 江戸時代の伊豆は幕府直轄領で、江川氏が世襲の代官として支配した。幕末に代官を継いだ英龍(坦庵・太郎左衛門)のときは伊豆のほか相模、甲州など十万石あまりの領地を管理した。坦庵は天保の騒然とした世相の中で、民政に力を尽くし、山梨県都留郡には善政を慕う住民が作った「世直し大明神」の幟が残っている。岡田十松に剣を習い免許皆伝、剣豪斎藤弥九郎の弟弟子であり、渡辺崋山らと蘭学を学ぶ文武両道の人で、1838年、米船モリソン号の浦賀来航以来、国防を訴え、砲術を高島秋帆に学んだ。1842年、江川塾を開き、佐久間象山をはじめ全国から入門者を受け入れるとともに大砲製造に着手、江戸を守るため品川沖に台場建設、韮山に大砲を作る溶鉱炉(反射炉)を作った。一方で種痘普及のためわが子に接種させ、国防のため農兵制度を提唱、韮山で訓練もした。軍用食としてパンを作ったことで、のちに「パン祖の碑」が江川邸の中に立てられた。「気をつけ」「休め」などの号令も農兵訓練の際に始めた。農兵の行進で歌ったのが農兵節で、訓練場は江川邸の門前に残っている。
 1868年、明治維新で韮山代官所支配の天領は韮山県となった。韮山代官所が県庁で、伊豆、武蔵、相模、駿河、甲斐に及んだ。1871年の廃藩置県後、韮山県は分割され、伊豆は足柄県に入った。江川家の家老格の柏木忠俊が韮山県、足柄県の実務を管理、1876年、足柄県は廃止され、伊豆は静岡県に移った。韮山郵便局には「静岡県第4号」の札があり、かつての県庁所在地の重みを伝える。柏木らは教育にも力を注ぎ、1873年、小学校教員を養成するための仮研究所を作った。後に旧制中学、戦後は韮山高校になった。県下最古の高校で、江川家の敷地にあるため、卒業生は江川塾の後継を自認している。玄関前の江川坦庵像は熱海出身の同窓生・澤田政広作。校訓は江川坦庵の座右銘から「忍」。進学校だが甲子園にも2度出場している。

2.温泉と農業の伊豆長岡
 伊豆長岡の地名は、平城京(奈良)と平安京(京都)の間に桓武天皇が短期間都を置いた長岡京(京都府長岡京市)に似ていると、都から流された人たちが呼んだという。中央との交流は盛んだったらしく、伊豆中央道料金所近くの北江間横穴郡から、「若舎人」の文字が刻まれた石壷(骨壷)が出土した。古墳時代後期の火葬の証明でもある。町最大の祭り「あやめ祭り」は平安の武将・源頼政が宮廷に出現した怪物・鵺(ぬえ)を退治した褒美に与えられた官女・菖蒲の前の出身地だからという。鵺にちなんだ祭りもあり、鵺の着ぐるみは伊豆中央高校の応援にも登場する。
 鎌倉時代は執権北条氏の支配下にあり、江間には北条寺もある。江戸時代は韮山代官の支配地で、寛永年間(1643年ころ)水不足に悩んだ江間地域の農民らが狩野川をせきとめ、水を引こうと壮大な土木工事に取組んだ。江間せぎは1958年の狩野川台風の後、放水路建設に伴い撤去された。狩野川放水路は台風の7年前から計画されたが、台風の7年後、ようやく完成した。沼津市口野に向けて国道414号と並行する。平時は水門が閉じていて水はほとんどない。江間地区はイチゴを中心にした農業地帯で、イチゴ狩りシーズンには田んぼの菜の花も満開になる。
 伊豆長岡温泉は、狩野川に近い古奈地区が戦前から知られていた。東京から知名人が静養に来るため、韮山を通っている伊豆箱根鉄道の駅名を「伊豆長岡」にしたほどだ。戦後は国道414側の長岡地区も温泉街になり、大衆路線で売り出した。間の小山は源氏山と呼ばれ、手軽な散策コースでもある。狩野川沿いは桜並木も多く、花見の名所になっている。伊豆の国市役所そばの葛城山は山頂に展望台があり、田方平野が一望できる。

3.工場の町から商業の町へ
 大仁町には縄文、弥生の生活跡はかなり多い。山間から中間部にかけて古代から人が住み着いた。狩野川に近い平野部は洪水を避け、古い街道は山すそを通っている。八重姫ゆかりの女塚は韮山から伊東に抜ける山道の途中の田中山。今はスイカと酪農で知られる。字名で残る宗光寺は巨大な寺だったというが、明治の廃仏毀釈で滅んだ。
 近代の大仁は工場の町だった。大正9年、脇田酒店店主・脇田信吾が米を使わない酒造りを目指して東洋醸造を設立、合成酒「力正宗」を開発した。合成焼酎「紋章」は青年科学者をモデルにした横光利一の小説の題でもある。戦時中もアルコール事業は順調で、田京工場には伊豆箱根鉄道からの引込み線もあった。その後旭化成と合併、2008年、130年を越える酒造りの歴史を閉じた。
 大仁発祥の企業では、1919年、間宮堂が大仁駅近くに設立され、金庫、加減算機(機械式計算機)を製造した。1926年には国内初の金銭登録機(レジスター)を発売、1940年東芝に買収され同社大仁工場になる。1950年には分離独立して東京電気器具株式会社、いわゆる東京電器になった。レジスターのほか家電製品を作り続け、今は東芝テックとして海外進出も果たした。間宮堂は大仁の間宮勝三郎が1916年に間宮式金庫を開発したのが始まりで、息子精一は同社の開発技師だったが、後にカメラのマミヤ光機を創業した。勝三郎の弟は将棋棋士の間宮純一。
 旭化成の酒造部門撤退や東芝テックの海外進出で工場が小さくなった分、大仁には商業集積ができた。国道136号と414号、伊豆中央道、県道宇佐美大仁線が三福インターで合流、大仁インターでは修善寺道路と136号が接続し、伊豆箱根鉄道田京、大仁の2駅があるため交通の便は良好、量販店を核として田京―大仁間は大規模商店街になりつつある。