伊豆ガイド〜中伊豆編〜
伊豆市[いずし]
- 名物
- ワサビ、シイタケ
- 名所・史跡
- 白岩遺跡、修禅寺、旧天城トンネル
- 簡単アクセス
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●東京方面
東海道新幹線三島駅、東海道線三島駅―伊豆箱根鉄道駿豆線 牧の郷、修善寺
東名高速道路沼津インター―国道1号三島―国道136号(修善寺、天城湯ヶ島、土肥)
東名高速道路沼津インター―国道414号(修善寺、天城湯ヶ島)
●名古屋方面
東海道新幹線三島駅、東海道線三島駅―伊豆箱根鉄道駿豆線 牧の郷、修善寺
東名高速道路沼津インター―国道1号三島―国道136号(修善寺、天城湯ヶ島、土肥)
東名高速道路沼津インター―国道414号(修善寺、天城湯ヶ島)
●熱海より
伊豆多賀―山伏峠―大仁―国道136号
熱函道路―函南―伊豆中央道―修善寺道路
熱函道路―函南―国道136号
●伊東より
宇佐美大仁道路―大仁―国道136号
県道伊東寺線
●新宿より
新宿駅西口―伊豆=新宿スカイライナー(1日2往復)
●沼津より
沼津港―ホワイトマリンⅡ―戸田―土肥(片道50分、1日3往復)
●清水より
清水港―駿河湾フェリー―土肥(片道65分、1日4往復)
- 歴史
- ●平成16年4月1日、修善寺、中伊豆、天城湯ヶ島、土肥の4町合併で市制施行。
1.湯の街情緒が復活
平安時代初期(807年)に弘法大師(空海)が開いた修禅寺の門前に、これも弘法大師が仏具の独鈷で掘り抜いたという温泉が涌き、以来山里の保養所として温泉街が形成された。鎌倉時代には頼朝の長男・頼家が幽閉されたといわれ、指月殿に墓もある。室町時代の北条早雲も修善寺の湯で伊豆攻略の策をめぐらし、韮山城主になってからも修禅寺を厚く保護した。明治になると東京から著名人が静養におとずれ、岡本綺堂は傑作・修禅寺物語を書いた。1913年、静養中の夏目漱石が危篤状態になったときは新聞記事にもなった。漱石は「思い出すことなど」で修善寺を温かく描いている。昭和のはじめ、吉田絃二郎が描いた修善寺は、当時伊豆箱根鉄道の終点だった大仁から修善寺まで、馬車で行き来していた様子が描かれ、山や川を愛した流麗な文章は当時のベストセラーだった。
1958年の狩野川台風で、地形が変わり集落が消滅する大打撃を受けたが、温泉場情緒の再現に取り組み、修禅寺にまつわるイベントを続けている。また自転車振興会のサイクルスポーツセンターと競輪学校、修善寺梅林に隣接して修善寺虹の郷などの施設ができた。一方で、後背地の天城湯ヶ島、中伊豆のワサビ、シイタケが集まる農業基地でもある。伊豆市の玄関口兼集積所として町づくりを進めている。
2.ワサビの郷は変身中
中伊豆町は伊豆の中では比較的観光色が薄かった。元は大見一族が支配したため、大見といい、大見のワサビといえばブランドだった。今でも、この地域の出来次第で全国のワサビの相場が決まる。大見一族では、曽我兄弟の父・河津三郎祐泰を暗殺した大見小藤太の墓が実成寺にある。
そんな町には考古学上の大発見がある。伊豆半島はフィリピン・プレートに乗って南方から北上、100万年前に本州に激突したという学説がある。その伊豆は今の北半分で、南側はその後の火山活動で隆起した。白岩の西区一帯の地層から、有孔虫や貝の化石が見つかり、かつては海底だったことが証明された。また全国でも珍しい環状列石のある縄文遺跡も白岩で見つかっている。
近代では、広島県出身の農学者・大井上康博士が大正8年、理農学研究所を設立、1944年、大粒の新種開発に成功した。研究所から見える富士山にちなんで「巨峰」と名づけられた。2000年、韮山出身の志太勤シダックスグループ会長が中伊豆ワイナリーシャトーT.Sをオープン、伊豆生まれのワインと癒しの空間作りを目指している。
山間部では、修験者しか知らなかったという地蔵堂の萬城の滝を、地元の人たちが手作りの祭りで紹介、真夏でも涼しい幽玄な空間が新しい観光資源になった。
3.森の国は水の国
天城湯ヶ島は伊豆でも最も深い森の中にある。南に天城山系があり、狩野川の源流・水生地や天然記念物モリアオガエルの生息地でもある八丁池など神秘的な世界が広がる。
狩野の名前は延喜式に登場する。応神天皇が275年に伊豆国に造船を科し、飛ぶように早い軽野船ができたという。狩野川に面して軽野神社があり、天城の巨木を加工し、川に浮かべて運んだと考えられる。狩野川の名も、軽野からともいう。ここの豪族狩野氏は伊豆有数の勢力を誇り、日本画の狩野派のルーツという。柿木にある狩野茂光の城跡は中世の山城。
巨木といえば浄蓮の滝の上流・滑沢渓谷の太郎杉が高さ53メートル、樹齢400年以上と天城最大。県の天然記念物でもある。滑沢渓谷は滑らかな岩と清流がおりなす静寂の空間で、新緑や紅葉のシーズンは最高。入り口近くに、湯ヶ島育ちの井上靖文学碑がある。井上靖の家は、道の駅・天城越えのそばに保存され、昭和の森開館で資料も見ることができる。文学散歩では、天城トンネルを歩くと伊豆の踊子や松本清張の「天城越え」の世界がそのまま保存されている。戦後の名舞台「夕鶴」の作者・木下順二も天城にゆかりが深く、日本唯一の夕鶴記念館が建てられた。
徳川家康の側室・お万の方が参拝し、頼宜、頼房を授かったという子宝の寺が行基が開いた吉奈温泉の善名寺、下半身の病に聞くという烏彗沙魔(うすさま)明王を祭る明徳寺の東司祭りは毎年8月29日で、年をとっても下の世話をかけたくないという参拝客で賑わう。
4.海賊と金山
土肥は駿河湾に面し、穏やかな入り江を持つため、古くから海の民の拠点だった。古代人も魚介を採って暮らしていたらしい。平地が少なく農業に不向きなため、建築など技術者を目指す気風もあった。室町から戦国時代、土肥城主・富永氏は伊豆水軍の精鋭部隊として権勢を誇った。土肥神社は鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したもので、10月の大祭は流鏑馬神事や水軍出陣を偲ぶ土肥太鼓など大がかりに行われる。富永氏の菩提寺・青雲寺も大工の神様といわれる酒井多次郎藤原政房の作で、日蓮上人一代記を描いた畳大の版画絵90枚が展示されている伊豆有数の豪華さだ。
火山の多い伊豆には、鉱物の産出もあった。1577年に発見された天正金山は伊豆最初の手掘り方式で、今は国道136号沿いで見学ができる。以来、土肥の金は徳川幕府直轄となり慶長大判小判の地金を産出した。明治39年に神戸の実業家長谷川桂五郎が再開発、土肥金山として昭和40年まで、年間金40トン、銀40トンを産出した。金山から土肥港まで軌道が敷かれ、金山専用の桟橋から船積みされていた。金山から湧き出す温泉は海に流れ込み、今も屋形海岸に湯の川端バス停の名が残る。
金山が廃止された後は、温泉を生かした観光に転換、海水浴場とともに観光客を集めた。松原海岸に世界最大の花時計、駿河湾を見渡す小下田の岬はグアム島観光にちなんで恋人岬として、清楚で華やかなリゾートを目指している。南部の地域では花卉栽培も盛んで、清水港からの船便を生かして、静岡空港との連携も目指している。